2011年4月19日火曜日

4月19日 「父」

きょうは「鉄」とまったく関係ない話題です。



正月早々に娘の緊急入院がありましたが、容態が安定してきて退院し時折の通院ですむようになり、やれやれとした所で、、、


父は3月半ば頃から体調不良がありましたが、家族は心臓ペースメーカーの不調かと思っていました。
19日夕刻にかかりつけの五反田にある関東病院で診察を受けた所「間質性肺炎(かんしつせいはいえん)」と判明し緊急入院しました。
この肺炎はかの「美空ひばり」さんの死因にもなった病です。

治療開始後も医師の「やっかいな肺炎」という説明通り投薬の効果が現れにくく、入院後日増しに呼吸が苦しくなってきたようで、3月末頃からは筆談していましたが、ついには4月5日の午後から鎮静剤の投与を開始せざるを得なくなりました。

その後は話す事も筆談も出来なくなり、14日午後10時25分に永遠の眠りについてしまいました。
鎮静剤投与の数日前に「帰りてぇなぁ…」といった言葉が、今でも耳に残っています。


4月8日の結婚60周年のダイヤモンド婚式当日は、薬の効果で眠っていました。
5月1日の88歳の米寿の誕生日は、残念ながら迎える事は叶いませんでした。

年齢も年齢だったので、もとより全快は難しいと思っておりましたが、ある程度回復し入院以前のようには行かないまでも、帰宅してくれるものとばかり思っていしました。

大正生まれの人らしくとても我慢強く、医師からは「外見はおだやかに寝ていらっしゃるように見えますが、数値からすると相当苦しい状態のはずです。」という説明もありました。

14日は父のいとこが見舞いに来るとのことで、朝から昼過ぎまで母が付き添い、夕刻からは私が一人で付き添っていましたが、素人目にはそれまでと変わらない容態に見えました。
20時頃には帰宅すると家族には言っておいたのですが、何となく帰る気がせず父の横に座っていました。
鎮静剤のせいもあったと思いますが、10時少し前に容態が急変した時も微動だにせず、主治医から「ご家族を呼んでください。」との指示で母と私の家族、妹の家族に連絡をし、全員が集まった頃合いを確認するかのように息を引き取りました。
最期はほんとうに眠るように静かでした。

父本人はまさかこのようなことになるとは思っていなかったと思いますが、鎮静剤で眠っている時は夢うつつに自分の置かれている立場をある程度理解していたようにも思います。
毎晩病院からの緊急連絡があるのではないかと、怯えることはなくなりましたが…
居るはずの主がいなくなった食卓のイスが寂しげですが、代わりに仏壇の上に遺影が飾られることになってしまいました。


今年は桜の開花が遅く、散り始めた頃に一緒に旅立った父。

私の写真好きの元は父にあります。
遺影を探している最中も、父の撮った私の知らない場所でのお祭りなどの写真は、大事に保管したいと思っております。
一昨年の秋、母に買ってもらったコンデジに残る最期のカットは1月に撮った母でした。



誠に勝手ながら、このブログは6月上旬の四十九日を過ぎるまで、更新を停止させていただきます。

今までも諸般の事情により遅れ気味の更新でしたが、悪しからずご了承下さい。